1月4日にNHKで放送されたETV特集、「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」を見ました。
これまでの放送内容
戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明(よしもと・たかあき)さん。84歳になった今も、自らの「老い」と向き合いながら、思索を続けている。
僕は、テレビ画面にイチローが出てくると、いつも釘付けになってしまうのですが、それと同じくらいこの番組に釘付けになりました。90分の放送の中で説明らしき場面はほんの少しで、あとはずーっと吉本隆明さんがしゃべっているのを映している番組でした。かなり面白いことを話していたのと、いろいろ参考になる哲学者、文学者の名前が出てきたので、ここに書いておこうと思います。
終戦について
吉本さんは、終戦の時、富山県魚津市の化学工場で働いていました。その時にラジオで、天皇陛下の玉音放送を聞きました。吉本さんは家に帰って一人で泣きました。理由はなく、なぜかただただ泣くだけだったそうです。吉本さんは、降伏したいと思っていたのではなく、“主戦主義者”であったため、あくまで戦いましょうという姿勢でした。吉本さんの5歳年上のお兄さんは陸軍に入隊し、戦死したそうです。
吉本さんは、終戦してから5,6年は「世界を知る方法というのは少しも知らなかったな。」ということに気づき、猛勉強しました。その時が一番勉強したときだということです。そして、吉本さんは世界を知るために、アダム・スミスからマルクスまでの「古典経済学」に辿り着きます。
アダム・スミスについて
吉本さんは、アダム・スミスというのはとても偉い人だなと思いました。それは、彼の主著である「国富論」において、誰にでもわかる言葉で(優しい言葉で)、古典経済学の考え方を記していたからです。
例えば、野原にリンゴの木があるとします。そのリンゴの一つを取って食べたいとしたときに、その価値は、「自分が立っているところから、そのリンゴを取るために木まで歩いていって木に登り、降り、戻ってきたときに、その労力がそのリンゴ一つの価値であると言うことです。
吉本さんは、この古典経済学を学んだときに、終戦で生きる意味を失っていた自分にとって、「世界の仕組みを知る古典経済学と、自分が今まで培ってきた文学的素養を組み合わせれば、この世界を生きていけるな。」と思ったそうです。
芸術言語論について
吉本さんが、言語について考えるときに、世間一般で使われている「コミュニケーションのための言語」というのは否定するところから始めました。言語の「幹」と「根」は「沈黙」である、という風に考えました。コミュニケーションのために使われる言語は、植物の木で言えば「枝葉」にあたるのだ、と。言語の重要なところではない、と。
吉本さんの「芸術言語論」というのは、より「幹」に近いところの自分の言葉、吉本さんオリジナルの言葉で言えば、「自己表出」が大事であるとおっしゃっています。そして、コミュニケーションで使われるための、「枝葉」にあたるところの言葉を「指示表出」であるとおっしゃっています。
例えば、人がきれいな花を見て「あぁ、きれいだ。」とつぶやくのは、「自己表出」。その花を指さして、他の人に「きれいな花だね。」と言うのが「指示表出」です。表出というのは、人間と自然との欠かすことができない交通路のようなものだと吉本さんはおっしゃっています。
人間というのは、表現(表出)をすると変化を伴います。例えば、ある学者さんが机の前で学問のことを考えているだけでも、それを続けているとやはり学者らしくなってきます。このように人間が表現すると言うことは、必ず自然から何かしら返ってきます。両者が相互作用していると言うことなのです。
森鴎外について
夏目漱石と並ぶ、日本を代表する近代日本文学作家。主著に「山椒大夫」や「高瀬舟」があります。陸軍軍医総監でもありました。作品の中に「半日」というものがあります。明治42年に書かれた短編集。同居している妻と姑の仲が悪く、その仲裁に半日を費やすところが描かれています。
吉本さんは、この作品の何が問題なのかというと、森鴎外ほどの調和のとれた人でも、このような人間関係によって進退窮まって、理屈にもならない理屈をこねてしまうところだとおっしゃっています。この例を通して、
「精神構造」ー「その表現」ー「表現の結果」
この直線を凝縮して表現しているところが面白いところであると吉本さんはおっしゃっています。
三四郎について
主人公の三四郎とその先生が、先生の見た夢について語るシーンが取り上げられています。「三四郎」というのは、漱石の作品の中でももっとも楽しいものですけども、このシーンだけは、「漱石の関係妄想」がよく出ている箇所だと吉本さんは言います。
漱石はイギリスへの留学時代、うつ気味になっていたことで有名です。このような人間性というか、その人の精神構造が、ここに現れてきているとのことです(ちょっとここは文章にしにくいです)。
吉本さんは、森鴎外や夏目漱石の例を挙げて、「作品と、その人の精神構造と、その人の言葉に表れた芸術言語を凝縮して考えれば、その人の芸術言語というのは、その人の宿命を指さしている」と言います。「文芸批評という領域があり得るとすれば、作品の批評をするときに、その作品とその作家の精神構造が強い糸でつながっているということを明瞭にできるのであれば、文芸批評としての本来の役割はできていると言える。」とも言っています。
これは、音楽で言えば、モーツァルトの思想を理解して演奏しているのと、ただ単に音符を演奏しているという違いの関係と言い換えることができます。
芸術の価値
芸術の価値とは、吉本さん曰く、「沈黙に一番近いところから出てくる、沈黙に近い片言のような、自分だけが理解できるような自己表出の部分が、芸術の価値の大部分を構成しています。」とのことです。芸術の価値で一番良い例で言うと、京都大学の先生であった、桑原武夫さんの「第二芸術論」のことです。
第二芸術論
俳句で有名な松尾芭蕉が作った作品から、松尾芭蕉の名前を消して、他の作品と混ぜて読者に見せると、読者は松尾芭蕉の作品がどれで、どの作品が良いのかわからない、と言う例があります。例えばポール・ヴァレリー(フランスの詩人)の作品を頭に置くと、芭蕉の作品がどれかわからなくなるんだと、桑原さんは言っています。
これに対して、小林秀雄さんは日本の文学は、バルザックのような非常に秀でた芸術作品にも劣らないものだと主張しています。吉本さんも、これに賛同しています。しかし、日本の芸術の中には、「縮小することによって、芸術を新たにする」という傾向性があるともおっしゃっていて、これが日本文学の大きな特徴だと言っています。
だから、芭蕉の俳句を作者の名前を隠して見せるとわからないじゃないか、一見してバルザックのような長編小説だとわかるようなものではないかというのは、その論議自体がおかしいんじゃないか、とのこと。
すなわち、自己表出、「幹」の近くで表現された言葉であることに変わりはないと言うことです。では、指示表出は芸術に関わりはないかというと、そんなことはないのです。副次的には関係があると吉本さんは言っています。小説を例に取ると、自己表出の合間に起伏のようなものを作るのは指示表出です。
横光利一について
作家であり、俳人。吉本さん曰く、日本の近代作家の中で、唯一、「自己表出」と「指示表出」をきちんと意識して作品を作った作家とのこと。著書に「旅愁」、「日輪」など。どういうことかというと、日本の文学には、「純文学」というものと「大衆文学」に分けられてしまう。これに対して、ヨーロッパの文学は、「純文学であり大衆文学」というものが存在する。
これを意識して、横光利一という人間は、「日本でも純文学であり、大衆文学でもあるという作品が作れないものか。」ということを考えて活動した人だそうです。
さらに具体的な作品を例に挙げると、ドストエフスキーの「カラマーゾフ兄弟」というのは、純文学としても非常に面白く、そして筋も面白い、両方の性質を兼ね備えた作品です。つまり、「自己表出」の部分でも面白く、「指示表出」の部分でも楽しめるという作品なのです。
そして、「芸術に価値というものがあるのか?」というのを考えて世に出たのが、太宰治です。この人は、「芸術の価値なんて考えたことない。」ということを言っている人です。これは、昔からヨーロッパなどでも論じられていることでもあります。
マルクスの機能主義について
吉本さんは、これに対して「機能主義(Functionalism)」を挙げて話しています。これは、カール・マルクスが、「資本論」の中で、「芸術も修正を加えれば、すなわち、労働価値を加えれば加えるほど、よくなるのではないか?」と書いていることに言及していることです。吉本さんは、そうではない、芸術というものは即興で作ったものでも芸術になり得るんだということを言っています。そこで、機能主義でモノを見るのは危ないなぁと吉本さんは思うそうです。
編集後記
今の芸術は、昔の芸術に劣るのだという論があります。それは文学にもあることだし、音楽にも言えることだと吉本さんは言います。一見、文明が発達している現代の方が芸術が劣っているということはどういうことでしょうか?
これは、現代の言葉というのは、コミュニケーションを成立させるためのものという側面が強いですが、昔はそうでなかったわけです。つまり、いろいろな専門性を増した現代の言語は、「幹」や「根」にはならないわけです。だから、文明が発達していけばしていくほど、芸術はだんだん小さくなっていくということも言えるわけです。
昔の人は、他に目を向けることがないということもあり、自分というもの、すべての人間性をこめて、芸術を作っていたわけです。